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2009年8月 8日 (土)

帝国ホテル ライト館 中央玄関

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私は、建築とは人と自然とのインターフェースだと思う。
住まう人、活動する人、集う人、休む人それぞれのために空間内部を深く考える行為であると同時に建築される土地の環境との共生を考えることが重要だ。
したがって、建築家は日頃から自然観察や植生などの知識や感性も欠かせないことだろう。

しかし、建築物の保存を目的とした移築は、本来の存在目的と周辺環境との調和にまで想いを巡らすことは難しい。明治村はそれが大きな課題であり、その課題を認識していながらも移築、展示保存する博物館としての存在価値は大きいのだろう。

今回の明治村訪問の大きな目的の一つである、帝国ホテル「ライト館」中央玄関に触れることだった。その思想、様式、こだわりの空間を実感してみたかった。

帝国ホテルは、外国からの賓客や外交官を接待する社交場として明治政府によって建てられた鹿鳴館に関連する宿泊施設として、その隣接地に明治23(1890)年に開業している。その後、日露戦争で戦勝したことで世界から国力を認められ、国際的にも通用しかつ日本を代表するような新館の建設が大正5(1916)年に決定された。その設計を依頼されたのがフランク・ロイド・ライト、近代建築の三大巨匠の一人である。

大正5(1916)年のライト来日から竣工の大正12(1923)年まで実に7年の歳月が費やされている。完璧主義者だったライトと経営陣はたびたび衝突し、当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って総支配人は引責辞任、ライト自身も完成を見ることなく離日を余儀なくされるほどの難産だったようだ。しかし、鷲が翼を広げたような建物配置、空間の取りかたの見事さ、皇居や日比谷公園の緑と大変調和のとれた美しいホテルは「東洋の宝石」と称されるほどの名建築として語り継がれている。

上の画像は明治村に移築された中央玄関部分の正面写真である。
実際の建物がった東京都千代田区内幸町は日比谷公園から東京湾まで続く平地で、小高い丘はなかったので建物の背景に雑木林の緑は見えず、本来そこには5階建ての劇場棟がそびえ、左右には対称形に連なる客室棟が広がっていたはずだ。
明治村の復元建築は玄関のみなので、後ろ側については食堂のところでスバッ!と断ち切られている。
白いテント幕の壁が背後を隠していて、惜しいような、哀しいような有り様だ。しかし小高い里山の前に建てることで観光客が背後から直視して、建物としての不自然さを感じることがないよう工夫したのだと思う。

建築物としてその環境や背景とともに、そういうことを想像しながらの見学だ。

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ちょうど私と同世代の女性ボランティアガイドの方が立っていらしたので、説明をお願いして、約30分かけて一緒に建物を巡った。

ここで聞いた話が私の知識のほとんどです。

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帝国ホテルは主に大谷石とスクラッチタイルの二つの材料、そして幾何学模様のテラコッタによって構成されている。
大谷石は外観以上に、内部にたくさん使われている。柔らかいことと、日本人の職人の腕がよいことで、かなり細かい細工が施してある。上の画像の右手後ろに食堂が続くのだが、そこは復元されていない。その食堂の大空間を支える柱上方に設置された方杖(ほうづえ)の大谷石が2階の一部に再現されていた。巨大な大谷石細工をひとつだけ間近で見ても凄いのだから、高い天井を支える列柱の上方にずらりとこの方杖が並んだ実際の食堂空間は壮観であったに違いないだろう。

吹き抜け以外のロビーの天井の低さ、スキップフロアを上がって行くことで吹き抜けロビーの見え方が変化する様、外の光の取り込み方、内照式の柱自身による陰翳は説明しても伝えきれないので、現場でこそ実感すべきものでしょう。
ちなみにライトの建築は、バリアフリーではない。階段の上がり降りで目の高さが変わり、景観が移り変わる。それを楽しむゆとりを持ちなさいということのようで、つまずいたりするのは全部、自己責任ということになっている・・。

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上の画像は車寄せ部の「スクラッチ(引っかき傷)タイル」のアップです。
左が実際の帝国ホテルに使用されたものを解体時に保存し、復元時に再利用したもの。
右が復元時に量産された規格品。味わいも色も明らかに異なる。

ライトはヨーロッパ文化を象徴するようないわゆる大理石による神殿式や赤褐色のレンガ積みではなく、マヤ文明の宮殿のような明るいオレンジ色のレンガを作るため、愛知県知多半島にある内海の土を使い、常滑に帝国ホテル専用のレンガ工場まで作って品質管理をしたそうだ。
そう、内海って、子供の頃よくいった海水浴場だ。それにこの明治村のある愛知県の地元じゃないか。急になんだか親近感が湧いてきた。

この話をボランティアの方から聴き、自宅に帰ってから調べてみた。
常滑といえ赤い土管や朱泥の急須で有名な常滑焼きがあり、伊奈製陶と何らか関係があるのかなと。なんと、ライトの厳しい品質要求に適うテラコッタを製作した工場の従業員を技術顧問をしていた「常滑の伊奈家」が土管工場に受け入れ、伊奈製陶株式会社を創業した、とあった。
現在の世界最大のタイルメーカーであるINAXが帝国ホテル建設に伴う大量受注を契機に家内工業的な窯元から近代的企業へと発展していったのだと初めて知った。

帝国ホテルの明治村への移築についてのエピソードも興味深かった。
そもそも大正時代の建築なのに、明治村になぜ移築することになったのか。
関東大震災でも被害がなかった要因であった短い杭の浮き基礎は、その後の周囲の高層ビル建設による地下水のくみ上げで建物が歪んだり、大谷石の劣化で雨漏りが著しいなど老朽化が進んでしまったことと、大阪万博のために来日する外国人にために収容数の多い建物への立て替えが必須となったからのようだ。帝国ホテルの解体がきっかけに初めての保存運動「帝国ホテルを守る会」が起こり、その後日本が近代建築も保存の対象として考えるようになったのだそうだ。
当時の首相、佐藤栄作がアメリカを訪問したときに、「帝国ホテルは明治村で保存します」と言いっちゃったことで、話が決まってしまったという。
しかし、解体から復元まで11年。ライトの描いた図面もなく、実測で新たに図面を起こし、解体した部品全部を運んではお金がかかるので大谷石の一部をプレキャスコンクリートで再現し強度と耐久性を両立したり、スクラッチタイルもあらたに外装用に量産復元、現代の建築基準法に合わせたりとその経緯は険しかったようだ。
ちなみにかかった経費11億円うち政府が拠出したのは1000万円だけだそうだ。

当時いろいろスキャンダルにまみれて仕事の少なかったライトは、日本でいい仕事をすればその後いい注文が来ると思い、帝国ホテルの仕事に精力を費やしたそうだ。しかし、日本での仕事の途中で帰国後もそう上手くはいかなったとのこと。その後、代表作である落水荘まで十数年かかる。

私がライトの建築に実際に最初に触れたのは1986年に訪ねたニューヨークのグッゲンハイム美術館だ。帝国ホテル竣工から20年後に委託を受けてから建物の竣工までに10年以上をを費やした「後期の代表作の一つである。マンハッタンの幾何形態の中に「有機性」を具現化したその建築の中央の吹き抜け空間に佇んだ時、そのエネルギーに圧倒された印象が今でも鮮明に蘇る。

ライトの作品が日本にあるのならば それを一度は触れてみたいと思っていて、それが適った。

明治村での一番人気であり、顔とも言える建築物が大正時代の建築である帝国ホテルであることはちょっと皮肉だが、時代を超えて、いい物はいいと感じることができるのも貴重な事実だと思う。

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